藤原彩人展 「空の景色と空な心」

FUJIWARA Ayato Exhibition Scenery of The Sky and Vacant Mind

 

二重化する空洞

 

 いくぶんだらしなく口を開け、焦点の定まらない眼差しを虚空へと投げ出す人物像は、これまでにもみられた藤原彩人の彫刻作品が備えている特徴だ。本展でもまた、虚無感をたたえて呆然と立ちつくす彫像が3体、加えて壁面には、2人の人物がそれぞれ手を口元に寄せ囁きあうような姿態と、大きく斜め下方に引き伸された2つの影がレリーフとして展示されている。

 彼ら(彼女ら?)の人格の不明瞭な相貌に、また猜疑心に満ちたその表情に、現代の社会に私たちが直面している生きることへの耐え難さを重ねることは、さほど困難なことではない。むしろ、そのような共同体からの疎外と孤立を、藤原の作品から読み取ろうとすることは、観者にとって当然の反応のように思われる。しかし藤原がこれまで、人体という形相に質料として陶を用いてきた背景には、人体における内面の喪失こそが作品を構造的に支えうるのだという根拠が、確固として存在していたのではないだろうか。藤原の作品におけるそのような人体と陶の間に結ばれている相互依存的な関係性に、ここでは焦点が当てられるべきだろう。

 本展に展示されている3体の彫像は、一見全て異なるようにみえるが、2体については1つの型から象られており、本来ならば複製として対をなすはずの作品である。しかし、頭部や手が作家によって部分的に付け加えられることで、それらの自己同一性はゆるやかに切断され、代わって曖昧な人称性が個々に付与されている。そのようなある eq \* jc2 \* "Font:MS明朝" \* hps12 \o\ad(\s\up 11(マトリクス),母型)を人体がはらみながら、その人体自体の形態が差異をもって変形されるさまは、レリーフの作品ではより顕著に認められることだろう。そこでは人体がまず鏡像のように反転し、さらにプラトンの洞窟を例に出すまでもなく、イデアとしての影が引き伸ばされ、大きな歪みがほどこされることで、4つの異なる形態が壁面に存在している。つまり、形態の変形と変質をどこまでも引き受ける容器として、人体の形象が選ばれているのだ。それは、陶と器としての人体が作品において等価であることを何より示している。ゆえにその彫像は口を自ら開け放ち、あるいは噂話を紡ぐことによって、その容器=人体の内部が空洞であることをことさら強調するだろう。

 近年の藤原の彫像は、陶としての性質をさらに色濃く持つ傾向にあるようだ。本作でも、陶芸の伝統的な技法である流しがけによって人体の表皮は白く覆われ、また人体を模した影は、マンガン窯変釉という鉄分を含んだ釉薬によって、生成の変質を被っている。藤原の彫像は、変形と変質が宿命づけられている。そしてまた、それら外的な変成の作用にどこまでも耐え続けるのだ。本展に掲げられた二重の「空」とは、器としての精神と身体の空洞性を指し示すことばにほかならない。

 

 

森啓輔(ヴァンジ彫刻庭園美術館学芸員)

2013.12.18
http://www.asahi-mullion.com/column/article/bihaku/381
みる、ふれる、きくアート

栃木県立美術館

藤原彩人(あやと)「立像―雲は溶け、地に固まる―C」

藤原彩人(あやと)「立像―雲は溶け、地に固まる―C」(2013年)

 手で石像に触れ、制作過程ででたケヤキの削りくずに鼻を近づける。木、漆、紙、陶といった素材を直接的に感じながら作品に目を向けると、新たな一面が見えてくる。栃木県ゆかりの14作家を集めた今展のテーマは「感覚で楽しむ美術」。立体のほか絵画、写真、身体表現など約100点の作品には、触れてよいものや音がするものなどが交じる。普段の美術鑑賞が視覚に頼りがちなことを実感させる企画だ。
(中村さやか)

■藤原彩人(あやと)「立像―雲は溶け、地に固まる―C」(2013年)口が半分開き、目はうつろ。子どもの背丈ほどの人物像には虚無感が漂うが、頰に差した赤みに生命を感じさせる。藤原彩人(38)は、人間の「空虚」と「存在」とが共存する様をテーマに、陶の人体彫刻を制作してきた。流しかけた釉薬(ゆうやく)が腕や足を伝わり、重力を可視化させる。  焼き物の町、益子で育ち、陶壁作家の父をもつ藤原には「視覚的に伝わりにくいものを具現化するには、陶の素材が一番適していた」という。作品の隣には作家の大型レリーフが展示され、陶の質感を触れて確かめることができる。